戯作文

戯作とは、通俗小説などの読み物の総称で、戯れに書かれたものをいい、戯作の著者を戯作者という。 そこかしこに書き散らかしたり、細やかにしたためた駄文の置き土産を、ここに印す。

運動会

あちこちウォーキングしていると、どこぞの高校の校庭に、突然足場が組んであることがある。
きっと運動会のスタンドだろう、もう終わったのか、それともこれからか、古き良き時代を想い出したりする。

朝方、遠くに号砲が聞こえて、ちょっぴり胸が騒いだ。
何故かそそくさとBIKEに跨る自分がいた。
兎に角駄目元で覗いてみようと思い立ったのだ。
胸騒ぎは結果的にドンピシャリ、やはり当地域の名門明善高校の、「第50回大運動会」開始の合図だった。

思い起こせば半世紀近く前、ファーマータナカは県立S高校に辛うじて在籍していたのだが、そこは子供の頃神童と呼ばれたような輩や、お坊っちゃまお嬢様ばかりが集う所で、己は完全なる半端者として、埋没し喘いでいた。
その学び舎は一応進学校でありながら、第3学年時の運動会終了までは、受験勉強そっちのけで運動会の準備と練習に現(うつつ)を抜かし、云うならば質実剛健と文武両道を足して青春で割ったような、まさに絵に書いたような優等生の集団だった。

ところで、久留米市荘島町に「青木繁旧宅」がある。
優等生で明善の出身である彼が初めて敗北感を味わったのは、同い年で同じ久留米市出身の坂本繁二郎の絵だったと言われている。
ここで我等素人が、馬鹿の一つ覚えのように想い出すのは、「海の幸」だ。
その後の彼の実生活は余り恵まれず、放浪の果て弱冠28歳でこの世を去ることになるわけだが、この有名な「海の幸」は、明治期の浪漫主義的絵画の記念碑的作品と言われている。
だが、美術や芸術にとんと疎く、かつ決定的にセンスがないファーマータナカには、「海の幸」に荒々しさや勢いは感じるような気はするものの、芸術的価値を論ずる素地も資格もない。

その当時、誤魔化し誤魔化し中途半端で空疎な高校生活をやり過ごそうとしていたのだが、運動会の対抗4チームのうち我等が属する青ブロック長H氏から、何故かバックを任せたいとの依頼を受けた。
運動会という盛大な行事を更に盛り上げる応援合戦や組体操が表のイベントとすれば、バックとは、そのチームをスタンドの背後から支え、一部始終を力強く見守り見届ける裏の絵物語だ。

そしてその年のド本命の黄色ブロックのバックが何の因果か、この「海の幸」であった。
我が青ブロックもそうであったが、このような完コピ擬きが著作権上問題とならないのかは疑問が残るが、それはさておき、その圧倒的力強さと迫力と芸術性で、下馬評ではダントツの優勝候補であったのだ。

一方安請け合いのファーマータナカは、今考えても「靑から海」へと如何にも凡庸な発想、葛飾北斎富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」の富士を題材と決定したのだった。
そして出来上がってみると案の定、「銭湯の壁絵」かと揶揄されるような陳腐な出来であった。
チームのメンバーと喧々囂々の議論の末、本番間際に苦し紛れに背景をグラデーションで修正し、本物を愚弄する暴挙に打って出たのであった。
挙句そのバックがまさかの優勝となったのは、たまさか出たとこ勝負の成せる技であったとしか考えられない。

さて、10代真っ盛りの組体操、応援合戦、そしてバックの絵をこうして眺めていると、一気一瞬に50年をタイムスリップしたかのような感覚を覚える。
拗ね損ねた溢れ者だったとはいえ、ほんの一時期だけでも、確かに血踊る青春の感動を味わわせてくれた、学び舎と仲間と時代に、今は素直に感謝を表したい。

(時効につき)蛇足乍ら、打ち上げは百道海岸の海の家で行われ、若気の至りと酔った勢いで、一部が夜中に近所の酒屋のシャッターを叩き廻る等の大失態を晒したが、学校側は余りの飲酒者の多さに処分不可だったようで、結局お咎め無しだったことを付け加えておく。

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